「人間」とは?
−人間的存在領域についての一考察−
はじめに
プラトンの『テアイテトス』には、タレースが星や空の何たるかを知ろうとして上ばかり見ていたので、自分の目の前の事柄に気づかず、穴に落ちてしまった哀れな哲学者として紹介されている。もちろんプラトンにとっては、哲学者の精神とは高尚なものにばかりではなく、人間的なものを含めた全体についても努力するはずのものとされているので、その努力を怠ったタレースには気の毒といえば、気の毒である。1)
このタレースのエピソードに関していえば、本報告のテーマに関係するもう一つの講釈が後世の人によってつけ加えられている。彼が最古の(というか最初の)哲学者として知られているのは「万物の源は水である」というまさに哲学的な言い回し方をしたことにあったわけだが、この考えが生まれたというのも、実は彼が落ちた穴とは井戸であり、その底にある水が自分を受け止めてくれたのだと気づいたとき、その水こそ万物の源であると思うに至ったというのである。
さて、アルキメデスが風呂の水があふれたのを見たという話や、ニュートンが木からリンゴが落ちるのを見たという話もまた、同様のエピソードであるが、こちらは自然現象についての見事なばかりの法則性を導き出している。が、タレースの場合は、本人の主観的意図はともかくとして、明らかに価値判断をしている。つまりは、水とは彼の命を救ってくれたばかりか、万物の源であると判断されたものであった。
もちろん現代では、科学的真理を認識したことで生まれる世界観で自らの生活環境を築いている場合が多いだろう。だがすべての人間がそうしているというわけではない。科学的真理を否定するというわけではなく、それについても熟知しているにもかかわらず、生活環境の中では、科学的真理に基づく世界観にあえて逆らう形の生活を営む方が多いかもしれないのである。実際、今日地動説は科学的真理として誰も否定しない。しかし人間の生活環境の場では、天動説の方が真理性を持っているのは、誰も否定しないところである。
言われるまでもなく、ここで私は天動説(あるいはそれと同類の天地創造説等々の考え方)の復権をもくろんでいるのではない。科学的には間違っているにもかかわらず、それを読み込んだ上で、何故に人はそれを一つの行動の原理となし得るのか、その正当性とは何なのかについて、吟味してみたいだけである。結論を先に言えば、人は、それぞれに自分の「人間的存在領域(Human Dimmensions)」を持っているからであり、それが故に彼の思考の世界にのみならず、行動の世界においても、影響を及ぼしているからである。
そこで本報告では、この「人間的存在領域」についてのいくつかの考え方について触れ、併せてそれらの問題が「平和研究」の究極の目的である「人類存続」の状態を保たせうるにはどうすればよいかについても言及してみたいと思うのである。
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私が最初に「人間的存在領域」について言及したのは、1998年に出版した『ホモ・サピエンスと平和』の中においてである。哲学的用語といってもよいこの言葉(Human Dimensions)が殊更に意味深く取り上げられたのは、地球の環境問題が取りざたされるようになった1990年代前後の頃である。
この問題のルーツを辿れば、ローマクラブが1970年代に出した『成長の限界』に見ることができるだろうか。2) ただしそこではそのような言葉は使われていなかったが、それから20年近く経過して、環境問題が地球的規模の問題として各種の組織によって本格的に取り組まれるよった際、その中の一つの組織である国際社会科学協議会(略称:ISSC)が研究計画の一環として掲げたテーマ、すなわち「Human Dimensions Programme on Global Enviromental Change」において初めてその言葉を使ったのだった。
もっとも、当時の日本の環境庁(今の環境省)では、このテーマについて「人間・社会的側面から見た地球環境問題」としてとらえていたし、自然科学畑の人もこの言葉を「環境についての人間的、社会的側面の研究」としてみる観が強かった。たとえば国立環境研究所の原沢秀夫氏はそれを次のように解釈している。3)
@ 人間活動が地球環境変化に及ぼす影響および地球環境変化による人間社会の影響を解明すること
A 地球環境変化における人間の役割や社会・経済との関連を理解するための研究を促進すること
しかし私は、拙著『ホモ・サピエンスと平和』においては、自然科学的なとらえ方ではなくて、むしろある種の哲学的な研究、すなわち「環境における人間的存在領域の研究」ととらえた方が適切であるとの見解を示した。何故ならば、上記の解釈では、地球環境変化に対して、人類の存続を前提とした上で、人間の技術的対応による持続可能な発展を期するというある種の楽観主義が感じ取れたからであり、従って、はじめから人類の存続を大前提とするのではなく、場合によっては人類の滅亡の可能性のあることを論議の中に強く織り込もうとする思いが強くあったからである。
また別の理由を示せば、前者では地球環境変化の原因は、あたかも人間存在とは関わりのないところにあるかのような色彩が濃いのに対し、後者ではまさに人間存在そのものにあるとの自己責任の意識を喚起したかったからである。それ故に人類存続の如何は、人間のこれからの行動もしくは人間性そのものにゆだねられるとのアピール的要素を持っていたのである。
より背景を探っていけば、実はこの国際社会科学協議会がHuman Dimensionsという用語を使ったのは、やはり、彼らの意識の根底に「人類滅亡の危機意識」がリアルな形であり、その事態の到来を防ごうとする意識が存在していたからだとは、私も思っている。それは、日本の自然科学者や当時の環境庁の人たちが高見の立場から解釈した「人間・社会的側面」を事実として示しただけのものでは決してなかったと思う。その意味ではこのHuman Dimensionsとは、個人であれ、人類全体であれ、自らの「死」(滅亡)の意識と不可分の関係性を持った言葉として使用されて初めて意味のある言葉遣いであったのである。私のいう「環境における人間的存在領域の研究」とは、価値自由的な立場からではなく、人類の存続を目的として、あるいは現実に生を与えられた人間の義務として、人間がどのような存在領域を獲得していけば、人類の生存を保証していくのかの価値創造的な判断の入ったものである。
実はこのような視座が、以下に述べるごとく、広い意味で「平和学」的アプローチをしていることがわかる。それ故、本報告もその研究報告の一つとして位置づけられることができるのである。4)
もとより平和学の固有の理念が戦争終結や紛争解決のための技術的問題にないのは論を待たない。平和が単に戦争の不在をのみ意味するでけでなく、「暴力」の不在をも意味することをアピールしたのは平和学の最大の功績であると同時に、そこにこそ平和学の存在理由があった。
歴史的に見れば、人類の滅亡の意識が契機となって提言された人類存続への模索や提案はいくつもあった。それでもそれらには宗教的あるいは情緒的なものが多く、いわゆる科学的合理性はなかった。周知のごとく、平和学そのものの必要性を感じさせたのは、第1時世界大戦による大量の犠牲者の発生、そして第2次世界大戦における、それを遙かに上回る犠牲者の発生、とりわけ核時代の到来が事実として認識されたことであった。それらを深刻に受け止めることによって、「戦争すれば人類が滅亡する」という危機意識と「戦争に勝っても結局は得にはならない」という打算性がミックスされた形で、戦争を回避するための、言い換えれば平和阻害要因を除去するための科学的研究の一つとして平和学が構築されたのだった。5)
ただここでのテーマ、すなわち「環境における人間的存在領域の研究」に至るには、もう少しの期間が必要だった。それを平和研究の流れの中でいえば、次のようになろう。すなわちその研究の焦点が核の脅威のラディカルな認識や、人口増が予想される中で発生する貧困などの経済的諸問題が構造的暴力として具現化されているという分析や、人間が地球という環境に生きている以上、その環境を破壊するという行為が人類に対する構造的暴力であるとする考え方などが人々の心に入り込むまでの期間といってよいだろう。
さてこのように、われわれは平和研究固有の問題として、核の脅威、貧困、環境破壊を一つのセットとして「構造的暴力」であるとする認識が必要であると言うことを知ったが、付言すれば、平和阻害要因の研究といってもよいこの平和研究に共通する認識が他にもあった。それはこの平和阻害要因なるものが「構造的暴力」という形態を伴っているということをさらに進めて、その発生の原因が「人為性」にあるとするはっきりした認識であり、その主張である。ややもすれば、その原因が「自然性」に求められる傾向性のある中で、あえて人為性を強調するのは、一応は科学としての立場をとっている平和研究の特殊性である。ここから、平和阻害要因が人為性にあるならば、平和実現が人為的にも可能であるとする信念が介在しているのは容易に察知されよう。
私自身は必ずしもこの立場に与するわけではない。というのは人為的に進めていくことの中にこそ平和阻害要因があるとも考えているからである。だがそうかといって、平和実現を人為的に可能にしようとする人間の努力を楽観主義的な戯言として見過ごすつもりもない。あの有名な本能主義者であるローレンツにしても、「文明化した人間の八つの大罪」の一つに「核兵器をもった人類の軍拡」をあげている。6) 彼は人間が不可避的にもたらすものとして八つをあげているが、この項目だけに関しては「解決可能である」ことを述べている。そこに「人間的努力」を認めたわけである。平和研究者にしても、こういった問題を人間的努力によって克服する意思のあることを疑うべきではないだろう。
ただ、それが人為的に可能であると見るからこそ、平和実現を模索し実現する資格が人間にあるのかどうかを確かめてみる必要があるとするのが、今の私の立場である。これは哲学的思考を好む者の性であり、私をして「人間的存在領域の研究」を選ばせた理由の一つとなっている。
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さて、その「人間的存在領域」についてであるが、以前の報告の中では、私はそれを「観念を構成することでしか生の対応のできない人間が自らの行動を導く場のようなものであり、単に外界といわれるものと違って、人間として生きることを保証する環境世界のことである」と定義した。7) また別のところでは、この世界が行為へと至る前の状況確認と自己の位置確認がなされるための場ではあるが、それは時間や空間としての直感形式に対応しながらも、それらから単に受動的に自己を規制するのではなく、自己の主張にあわせるように対応していく創造的にして可変的な感性の場でもあることを述べた。8) それは時間的空間的にも制限されているにもかかわらず、その中で自らの生き方を確保するために、自らが必死の思いで構築した虚構にしてしかも実在的でもある領域でもあった。
何故にそういえるのか次に説明しよう。元々私には、人間を「理性的存在者」としてみる見方には人間の錯誤と傲慢さがあると思っていた。それ故にここ「平和研究」に当たっても、私の基本的姿勢は、紛れもなく人間は生物学的存在であるとすることからすべてを考えようとすること、すなわち「人間をホモ・サピエンスとして見る立場からの平和への考察」に基軸をおいた。9) この根底には人間が他の生き物と完全に異質なものではなく、むしろ同じ生の特質をもっていること、言い換えれば生きるということに関しては人間も他の生き物も同じであるとする見方が介在している。
しかしながら、ややもすれば、われわれは「人間的(human)」という言葉を使用するとき、他の生き物にはない、従って秀でた特質を持つ形容詞として使いたがる。人類学や生物学においては、人間を進化した生き物ととらえたり、人間でなければならない条件とは何かと詮索し、それを殊更に強調したりする。哲学においては、人間固有のものとして、人間の本質、人間の本性という言葉もよく使われる。
その意味で、われわれはまだまだ、18世紀あたりからの「理性の時代」の呪縛から逃れられないでいるのかもしれない。20世紀後半になって、実存主義をはじめとして、構造主義、そして現代のポストモダンはその呪縛から解放されようとした思想となってはいるが、いまいち21世紀を生きるにはピンとこない。それは20世紀で育った人は(私を含めて)体の方がついて行けなかったということなのだろうか。その意味で、そんな過去の人間観と決別するためには、M・フーコーのいうように、さっさと「人間の終焉」を宣言しなければならないのかもしれない。10)
従って、私がここで「人間的存在領域」というとき、何か特別な価値を持つ存在領域をでなく、蝿には蝿的存在領域があり、アメーバーにはアメーバー的存在領域があるように、ヒトという生物種が生きるために構築している場を意味している言葉として了解していただきたい。
この点にふれる前に、少し紹介したいのが、人間というのは「いつも条件づけられた存在」であるということである。この考えはハンナ・アレントが『人間の条件』の中で使った言葉であるが、11)そこでは「条件」とは人間に負わされたものという意味で、実存主義的に言えば、「状況内存在」としての宿命性を持たされている。結局、アレントによれば、生きてある存在としての人間が接触するすべてのものが条件となるということになり、条件それ自身ははじめから人間の価値性を保証するものではなかったのである。
この、言わば、条件づけられた状態もしくは負わされた状態から、原点あるいはそれ以上の状態へと歩むために人間的努力によって設定されたのが、私のいう「人間的存在領域」といってよいだろう。付言すれば、これは設定されたというより、アレントの使う意味でも、人間自らが条件づけたといった方がよいかもしれないものでもある。
それではこの領域は具体的にはいかなる特徴を持っているのか。しかし私には、この問題に直接触れる前にどうしても言及したい用語ある。すなわち私の思考上のキーワードでもある「観念構成能力(the ability of ideation)」である。もともとこの能力は働きとしては、「物事を対象化して知る力」なのだが、別の言い方をすれば、記号化、象徴化、抽象化できる能力もしくは実在物を表象化する能力全般を指しているのである。
この能力が、詮じつめれば(通常的にといってもいいのであるが)、「知性」と言われていることについてまで、今は詮索しない。ただ発生の言われを探っていけば、これは何も生き物として優れた能力ではなくて、生き物の肉体的減退とか無能力を補償する生のメカニズムでしかないというのが私の考えである。生き物として生きるという点のみに立って考えれば、この能力は本能の一種と見たい方である。そして、働きの点からいえば、それは事物を記号化してそれを事物と同じものと見なすことのできる能力である。だがそれは、聞こえはいいが、記号化されたものは所詮本当のものではない以上、その代用品、悪く言えば偽物でも甘んじてそれを受け入れるという働きをしているだけのことなのである。
厄介なのは、その代用品が代用品としてではなく、あたかも本物であるかのごとくにしてしまう錯誤である。これは能力の無さによって起こってくる錯誤ではない。次の行動に出るために意図的になす錯誤である。しかしこの錯誤があってこそ、人間は緊急事態が発生したとき、生き延びることができるのだと私は考えている。
もともと観念構成能力とは、人間という生物種にたまたま起こった環境的危機に対してとった次善の働きであった。しかしそれは同時に自己を偽わり,他者を偽ってまでも生き延びようとする生き物の論理とすれば、ふさわしいものではあった。(この表現は次のようにも言い換えることができるであろう。人間は観念構成能力を働かせることにより、仮の自分像をこしらえたり、擬装したり、本物であるかのようなふりをしたりして急場しのぎをするべく条件づけられた存在であるということである。)
人間的存在領域とはこの観念構成能力の働きを提供し保証してくれる場である。と同時に観念構成能力によって想定されたものである。その関係を比喩的な形で言えば、ユクスキュルのいう環境世界、すなわち「個体の主観的又は現象的世界」とその世界に住む生き物である「個体」との関係のようなものである。あるいは体と心ということで説明すれば、それこそ昔流の二元論的な関係にあるのではなく、ウィリアム・ジェイムズのいう「心身一元論」に近い考え方である。言い換えれば人間的存在領域と観念構成能力は相互依存的な関係にあり、それぞれがそれぞれの存在根拠となっているものなのである。
考えようによっては、それらの関係は、通常われわれが出会っている光景と何ら変わらないものをもったいぶって言っているにすぎない。たとえば外界と内界、社会と個人、地と図、全体と部分、客観と主観などと枚挙にいとまはない。もともと二項対立とはわれわれの認識のために便宜的に設けられたもので、それぞれが実体としてあるのではないとするのが、現代的な事象のとらえ方の一つである。枚挙された上の例について言えば、、それらは要するに相対化されていること、見方によってはどちらとも言える性格を持っていること、それに関わる場合も一方の帰属もしくは価値判断だけに固執せず、自らを移動させたり変質させたりすることをも、生存上、当然認められるとする立場から見ていくと大差はないとする事象のとらえ方なのである。
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そこで、人間的存在領域と観念構成能力を関係づけている、あるいはそれらを包摂する固有のものとは何であるのかを吟味しよう。以前私が書いた『ホモ・サピエンスと平和』を知り合いに献呈したところ、最初は「観念構成能力」の具体的なイメージが湧かなかったが、それを「言葉」に関わる能力と理解したらすらすら読めたとのコメントをいただいたことがある。この関連で「人間的存在領域」について代わりに言えば、それは「言葉の世界」と言うことになろうか。それ故に、観念構成能力とは言葉そのものを作り出す能力ということにも当然なろう。12)
確かに、ロックなどイギリス経験論者が言うような言葉のとらえ方、すなわち事物の記号が観念であり、その観念の記号としてあるのが言葉であるとする伝統的なとらえ方では、それは間違いではない。なぜならば、私が取り扱おうとしているのは、まさに「記号の世界」もしくは「象徴の世界」なのであり、言葉とはその代表的具体例であるからである。 実は、言葉にしても記号にしても、われわれはその元になる「オリジナルなもの」、「実在的なもの」があることを想定するきらいがある。13) われわれが言葉を使い、記号を展開しても、安んじていられるのは、どこかにその「オリジナルなもの」、「実在的なもの」の存在を信じて疑わないからである。だからそのオリジナルなもの、実在的なものがなくても、言葉や記号を使うだけでも、実際的効果の上ではそんなに違わないと考える。言い換えれば、われわれが言葉を使えば、現場にいなくても現場にいるのと同じであるかのように見ることができるのである。われわれが言葉を「存在の不在」であるとして定義するのも、その代わり言葉を使うことによって同じような現場を再現する領域を確保しえると考えているからなのである。
だが私が想定している人間的存在領域はそんな単純なものではない。というのは、生活者としてのわれわれは主知主義者以上の二つの狡猾さをもっているからである。
一つめは、以前にも述べたように、生きるためにあえて錯誤というか思いこみをすることである。記号あるいは象徴の世界である人間的存在領域では、それが、コピーであれ、単に事物を言い表すものであれ、「オリジナルなもの」や「実在的なもの」と生活する上においては同じものとして扱われても許されるプラグマティックな立場に立てるということである。俗に言えば、コピーであっても、実物とそんなに変わらなければ、それでいいではないかということである。だが、ここには誤ってコピーミスをしてしまっても、あるいはオリジナルなものを思い違って観念化し、それを使ってしまったとしても、結果として生きていく上での効用性を与えているのであれば、許してしまうという事態も発生しうるだろう。14)冒頭の例で言えば、誤って井戸に落ちて出合った水がタレースに「万物の源」としての意味を持ったケースと同じである。。
そこからわれわれは二つめの積極的な狡猾さに至るのである。最初の場合は、まだこのコピー的なものでもオリジナルなものと照応させ、同等に扱おうとする姿勢はあった。だからコピーされたものは、どう見、どう扱おうが、オリジナルなものでないとの思いは残存している。それに対し、二つめは、両者の区別さえもしなくなるケースである。一つめの場合は、それでもだからあえて思いこみや錯誤をしてまでも、オリジナルなものにこだわろうとする。しかしここではそのこだわりは全くない。従ってオリジナルなものであるかのごとくに取り扱う必要もない。コピーされたものが、そもそもオリジナルなものという意識なのである。
敷衍すれば、もともと記号の世界、象徴の世界そのもの(言い換えれば人間的存在領域そのもの)が、実はこの二つめの考え方を特質としていると言えるのかもしれない。なぜならば、記号や象徴を作るにしても、あるいは観念を構成するにしても、それらがオリジナルなものの複製や模写でしかないとするならば、では人間とは単にそれだけのことしかできない機械のようなものなのかの思いがよぎるからである。
神のような存在でなく、はたまた理性を内在させる非肉体的な存在でもないものとしての人間を求めるとするならば、人間自身に存在しうる能動性、自由性を求める以外にないだろう。そうなると、当然そこから生まれる人間の本性とされるものは、自己以外の何ものにも依拠しないで、あたかも何もないところからも存在を作り出せる能力を有さねばならない。それが記号化されたものをオリジナルなものとして見ることのできる人間の本性(というよりは、ここでは人間の条件)が求められる所以となってくるのである。
私は経験論的な立場に与しているので、このルーツをヒュームの考え方の中にあると見てしまう。実は、私のいっている観念構成能力はヒュームのいう「想像力(imagination)」の考え方にも負っている。もちろんヒュームとて経験論者であるから、印象にしても観念にしても、事物(とりわけ外界の)と照応させようとする立場は崩していないだろう。だが彼が懐疑論者と後世の人間に言われてまでも、自己以外のものに準拠する「必然性」の考えを否定し、観念連合という人間的な能力を心の働きとして認めたのは、この「想像力」の働きを積極的に認めたから以外の何ものでもない。経験論が、文字通り、「事象に即すること」にあるとするならば、われわれが出発点とすべきなのは、まずわれわれの心の中に現れたものに準拠するということで、ヒュームは人間の能動性、自由性を信じたと私は思う。15)
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さて、最近の思想的潮流をマクロに見ていくと、実存主義や現象学が端緒となって、構造主義やポスト構造主義、そしてポストモダンといったごとくネーミングだけは華々しく変わっていったが、共通しているのは19世紀以前の世界観・人間観の超克であった。20世紀はその過渡期に当たっており、唯物論的な立場でマルクス主義やプラグマティズムがその先陣を切ったが、19世紀の残滓が強く、結果的に(後になって)挫折してしまった。
20世紀の後半になって、これらを受け継ぐ形で批判し、その残滓を可能な限りなくそうとしたのが、今最終段階にあるポストモダンの考え方であるが、しかしながら、それは21世紀を迎えてからの現在のところまで、何故か行き詰まりを見せている。それはこれらの思想が、言わば、体が19世紀型でありながら、心が21世型に向けられた股裂き状態にあるからだと思う。だから20世紀の思想を担った人たちは(ほとんどといってよいくらいに)そのような歴史的状況下にある運命にあったと考えられる。
ここで、何故にこの点を閑話休題的に述べたかというと、実は私自身もそんな類の20世紀人であるからである。本報告の内容においても、上の考えを提唱している人たちの考えに、気づくと気づかざるとに拘わらず、従っており、それを私なりの用語で書き直しているようにも思える。実際、この「人間的存在領域」の具体的イメージについて、ヒントを提供してくれたのは、ジャン・ボードリアールの著書『象徴交換と死』、『シミュラークルとシミュレーション』であったのである。
その中でボードリアールは「シミュラークル(simulacres)」という言葉に着目する。原義的にはそれは「神像・似姿・模造品」であるが、彼はそれに特別な意味を与え、ルネッサンス以降の価値法則の変動過程に平行して現れたものとして三つの領域をあげる。すなわち第一の領域として「模造」が、第二の領域として「生産」が、そして第三の領域として「シミュレーション」が支配的図式としてあることを述べている。そして第一と第二の場合は、第三の場合の「シミュレーション」と違って、自然なり、産業社会なりに対する準拠の気持ちはあること、すなわち彼の意をとって極論すれば、本物と偽物の違いのあることぐらいは了解されているものであった。
問題なのは、その第3段階にいたって形成される「シミュレーション」である。そこではコードによって管理されることになり、「無限に複製されるという事実において、システムはその起源に関する神話と、システムがその固有の過程に従って分泌してきた準拠的価値に終止符を打つことになる」16)と彼は考える。従って、本物と偽物の違いもなく、現実と空想の区別もない。逆にそうしてしまうのがシミュレーションそのものなのである。
このシミュレーションの世界を描くボードリヤール自身の真意は、実は、現代の高度に発達した資本主義社会、すなわち消費社会の実像を暴き、それに鉄槌を下す論理を見いだすことにあった。この点から、現代社会の特徴を見ると忘れてはならない特徴がある。それは現代社会がメディアによる情報社会でもあるという点である。ここから生まれたのが「ヴァーチャル・リアリティー(virtual reality=仮想現実)という言葉である。この中の「ヴァーチャル」という言葉が、コンピュータ時代を迎えて、一時的なメモリーを蓄える装置に使われたのがきっかけで、瞬く間に席捲し、シミュレーションの世界とはコンピュータ・シミュレーションの世界と同義になった観があるが、私自身の個人的な考えとしては、ヴァーチャル・リアリティーの世界がコンピュータの作る世界という意味においてでなく、オリジナルで厳密な意味での(というよりは私のイメージする)ヴァーチャル・リアリティーの世界こそが人間的存在領域を示していると思いたいのである。17)
とはいえ、私にとってはシミュレーションの世界やヴァーチャル・リアリティーの世界が人間的存在領域のティピカルな部分であっても、そのすべてを示すものではない点だけは断っておきたい。それらは現代的様相を呈しているだけである。つまりは機械とか科学技術の産物に依拠する部分が多いというだけである。そういったものに依拠しないでもわれわれはこれまでの歴史において何かを行う際にも、その都度、シミュレーションを行ってきたし、言葉や文字や絵からヴァーチャルな世界を描いてきたのは間違いのない事実なのである。むしろ現代の場合以上に、観念構成能力が、言い換えれば想像力が働いていたのだと断言することができるだろう。
実際、私が『ホモ・サピエンスと平和』の最終章で、三つの人間観を紹介したが、それは三つの人間的存在領域を示したことでもあった。すなわち、自然的環境内では自然の個物の特性を模倣することで、人為的環境内ではそこにある美徳の担い手としての役を代行する(演じる)ことで、身体的環境内では身体を通してのいのちを受諾する(借用する)ことで、ヒトが人間となり、生きるための行動に関わっていくのであるが、まさにそのヒトが人間へと位置づけられていく場が人間的存在領域であったのである。逆に言えば、自然的環境や人為的環境や身体的環境がそれぞれの人間的存在領域として読み替えられるのは、観念構成能力によって自然を模倣したり、社会システムの中で演技したり、いのちをわがものとして借り受けたりするからなのである。18)
先ほどのボードリヤールの言葉を借りれば、観念構成能力によって生まれてくるものはすべて「シミュラークル」である。誤解を恐れず言えば、人間的存在領域で生まれてくるものは神でさえも、そして観念構成能力によって「人間」として了解した「己自身」ですらもシミュラークルである。にもかかわらず、「いつしか贋物が本物とされ、演技が実技とされ、借用が所有とされてくる」のは、観念構成能力の作用の反復による以外の何ものでもない。(ヒューム的に解釈すれば、それは「慣習」によるということになるのであろうか。)私はそれを「錯誤」ないしは「思いこみ」というのであるが、それが人間の傲慢さに起因するのか、ホモ・サピエンスとしてナチュラルな営みなのか、吟味が必要とされるだろう。
おわりに
さて、最後に再度確認してもらいたいのは、この「人間的存在領域」とは、ヒトとしての生物種が生き延びていくために「人間」になることを、あるいは「人間」を演じることを可能にしてくれる場であるということである。この「人間」というシミュラークルは、自らもシミュレーションを続ける内に出自すらも喪失してしまったも同然の根無し草であった。しかし、それは出自を失うことでしか、生を存続させ得なかったホモ・サピエンスの宿命であったし、またそのおかげでホモ・サピエンスは今の「繁栄」とやらを得たのだった。この反省からも、現代人でもあるわれわれ「人間」は、それが緊急避難的なものとして許されたものでしかないのだという風に、もっと謙虚になるべきであったのである。
とはいえ、ここに至って、われわれは本報告における最大のアポリアを迎えることになるのである。つまりこの「人間的存在領域」の中で「平和」の問題が語りうるのかという難事に逢着するのである。確かに、人間的存在領域は迫りくる環境の危機(言い換えれば自らの生存の危機)に対して緊急避難的に作られた砦であり、かつその場合にのみ許されたものであるかもしれないのである。その仮説は仮説として認められたとしても、ヒトが人間となってその人間的存在領域の下に生の保証を得るということそのものが、実は平和阻害要因となっているのではの逆の見方が出てくるのである。
まずマクロの問題として考えるに、この領域を作りそこで生の営みをしたおかげで、多くの種と多くの仲間を滅ぼしてきた。にもかかわらず種としてはたかだか500万年の寿命しか保っていない。人類の存続どころか、種としての人類の滅亡を早める生き方を選んだことになるのではないかという点。
ミクロの問題としては、われわれが普通に考えている「平和」のイメージをことごとく打ち破り自己流の平和観を作り上げてきたこと。たとえば、秩序を無視し、正義をもてあそび、心をかき乱すところにこそ、人間的存在領域の存在理由があるとしてしまってはいないかという点である。19)
確かに、人間的存在領域は、人間それ自身にとっては両刃の剣である。われわれには、水が酸素と水素の化学的化合物であると考えるよりも、万物の源であると考える方が、人間的魅力と旨みはある。しかしこの同じ思考パターンの下で人間について言及していけば、神がなければ人間はすべてが許されるとか、人間はもとより神ですらも人間にとっては道具としてしかないと見るのに何のためらいも起こらなくなり、それこそ平和阻害要因を自ら作ってしまう危険性もあるのである。
敷衍すれば、この「人間」としての生を選択した(あるいは選択を余儀なくされた)旨みと危うさは人間的存在領域の中ではメタルの表と裏のように混在している。ホモ・サピエンスは「現実との生ける接触」20)をしようとして、結果的には、事物の観念化、象徴化、記号化、そして言語化のプロセスを経て人間的存在領域を作った。具体的にはそれは科学の世界、哲学の世界の複合体として結実した。最大の旨みはホモ・サピエンスとして生き延びることが、少なくとも現時点までは、保証されたことである。そして通常には諸観念の操作によって制限されることなき欲望充足の機会が提供されたことだった。危うさはホモ・サピエンスが限りある生き物であることを忘れることによってもたらされる混乱と完全なる自己喪失の危険性である。
人間的存在領域が平和的であるか、そうでないかの違いは、「人間」となって行動するわれわれがいかなる場合であっても常に「人間が条件づけられた存在」であることをわきまえているかによるだろう。その領域を形成する観念構成能力(あるいは想像力)の側から言えば、「これ以上のできないことがある」ことを認めるばかりか、「これ以上のことはしてはならない」領域を設けることであるのかもしれない。21)つまりは、われわれは無限にコピーできない存在であること、身体的環境の中にもいるから「疲れ」を覚える存在であることを了解するかどうかなのである。
私は禅の話はあまり分からないが、鈴木大拙がある講演の中で次のようにように言っているのを印象深く受け止めている。「肘はこっちの方に(反対の方に)は曲がらないが、その曲がらないことが自由なのである。」22)これはできないことの自覚の中にこそ自由があるとする禅独特の考え方であるが、この考えこそ「平和」の考えにもつながっていると私は思っている。この東洋の考え方は、自由そのものが条件づけられたものの中で存立しうることを見事に説明している。同時にそれは自然的存在者としての生き物がありのままに生きることであり、そのことによって「何をしてもよい」西洋的なものと違って、それ自体、秩序と調和がとれている世界を構築しているように思える。
そして、この考え方は西洋の考え方の中にも求められなくはないと思っている。周知のごとく、西洋では「個」の概念がしっかりしている。しかし、だからといって「何をしてもよい自由」を認めているわけではない。どこかに歯止めがかけられている。人為的に歯止めをかける可能性を求めれば、ホッブズ流の力による秩序維持の考え方もそうだろう。
個人的に言えば(楽観主義的といわれるかもしれないが)、アダム・スミスの「見えざる手」やライプニッツの「予定調和」は、私の考える平和のビジョンにも若干ふれるところがある。確かにそこでは「神」という存在が見え隠れしている。しかし、それらは宗教的な実体を伴うものではなく、「人間」の手を超えたものを示しているだけといった方がよく、そういったものにわれわれが「託する」気持ちになることが、「人間」にとっては屈辱的であるかもしれないが、ホモ・サピエンスにとっては平和的な人間的存在領域を獲得する、少なくとも一つの方法ではないかと思っている。
ホモ・サピエンスが人間的存在領域の中で生きなければならない宿命(今や必然性といってもよいかもしれない)をあえて受け止めつつも、観念構成能力の働きによって「人間」となったわれわれは、その「人間」を超えたものに対する畏敬の念を持つことで、平和的人間的存在領域を構築できるのだと、私は確信している。
注
1)プラトン全集2、岩波書店(田中美知太郎・水地宗明訳)、1974年、278−279頁
2)D.H.メドウズ&D.L.メドウズ&J.ラーンダズ&W.W.ベアランズ三世『成長の限界』(大来 佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年)を参照。
3)『地球環境変化の人間社会への効果とその構造変革に関するセミナー講演記録集』、大阪大学工学部環境工学・REGEC事務局、1998年、23頁
4)岡本三夫氏の「平和学の鳥瞰表」によれば、本報告は、5分野ある平和学の内の「哲学・思想、倫理学、神学、宗教学、世界観・人間観に関する平和研究」(平和学の理論的基礎付け)に当たるものと言えようか。(岡本三夫・横山正樹編『平和学の現在』、法律文化社、1999年、14頁)
ついでながら、残りの4分野を言えば、以下のごとくである。
A:「戦争と軍事に関する平和研究」(物理的争いを中心にした暴力の批判)
B:「政治的、経済的、文化的、宗教的、人間的解放に関する平和研究」(構造的暴力の批判)
C:「生活スタイルの見直しに関する平和研究」(自然に対する暴力の批判)
D:「学習過程と態度形成に関する平和研究」(心理的・教育的暴力の批判)
5)私の分野における平和研究のアプローチだけではなく、すべての平和研究のアプローチの底辺に流れているのは、アルジャーなどの主張する「人類生存の科学」としての平和学のイメージであることは間違いないであろう。たとえば、平和学部を持っていることで知られるイギリスのブラッドフォード大学の学部紹介では、平和学誕生の歴史的経緯も含めて、次のように述べられている。「平和学は戦争の惨事に関わる状況の中からうち立てられた。平和学は第2次世界大戦に引き続いて現れた。…オランダの平和研究の創設者(Bert Roling)が、それを”生存の科学”と呼んだのである。1945年後の数年において、生存はグローバルな問題となり、平和学は政治学や国際関係の研究と並ぶ地位を確保した。」(同大学ホームページより抜粋)
そしてこれを受け、今日の日本の多くの大学においても、平和学ないしは平和研究が講じられている。(現在平和研究を行う当事者であるので、反省を込めて言うのであるが)確かにそこでは学際性と実践性を伴う新しい学問の一端を担ってはいるが、日本において学問的市民権を得ているかどうかはまだはっきりしていないような気がする。
6)K・ローレンツ『文明化した人間の八つの大罪』(日高敏隆・大羽更明訳)、みすず書房、1975年を参照。
7)平成11年度大阪産業大学産業研究所研究報告書:「平和研究」の項を参照。
8)拙著『ホモ・サピエンスと平和』、大阪教育図書、1998年、第8章参照。
9)ところで、この人間を意味する「ホモ・サピエンス」なる学名も学名としてはふさわしくない命名、すなわち「賢いヒト」としていることに、別な意味で人間の傲慢さを覚えるようになった。ましてや、現生人類を示す学名が「ホモ・サピエンス・サピエンス」に及んでは何をか言わんやである。
10) Michel Foucault,Les mots et les choses,Gallimarrd,1966.(『言葉と物』(渡辺・佐々木訳、新潮社、1974年))最終10章参照。
11)Hannah Arendt, The Human Condition, the University of Chicago Press, 1958. (『人間の条件』<志水速雄訳>、ちくま学芸文庫))Prologueを参照。尚、この本の中でアレントは、人間の活動力(労働、仕事、活動)に対応するものとしての人間の条件として、生命それ自体、出生と可死性、世界性、多数性、地球をあげており、本テーマとも間接的にはつながっているのであるが、直接には関係ないので、詳細については省く。
12)これを書いている内にソシュールのラングとパロールの話が思い出されてきた。してみると、人間的存在領域とは「ラングの体系」を意味しているのかもしれない。更には人間が持っている観念構成能力が結実させているのは「パロール」と言うことになるのではと思うのであるが、そのことの精査については別の機会としたい。
13)ウィリアム・ジェイムズはそれを主知主義者が陥りやすい「心理学における錯誤」(The Priciple of Psychology, Dover, 1950,T, P.194)として切り捨てたが、ジェイムズの真意は、逆に、言葉によって実在的なものが想定されているということよりも、言葉がないからといってそこに実在的なものがないとしてしまう主知主義を批判することにあったので、それは単に「知」に関する論議でしかなかった。尚、この錯誤の詳細については拙著『ジェイムズ経験論の諸問題』、第2章、第2節を参照。
14)だからこそ、言葉について、それこそ実在に内在する原理(ロゴス)であるとする合理論者や所詮「市場の偏見」でしかないとする経験論者は反発するのであろうが、切羽詰まった生活者には、それどころではないのだろう。
15)これについては、ヒュームのA Treatise of Human Nature, Book T, Part T,Section V,及びPart V, Section \を参照。
尚、これに関連して付言すれば、もちろん、われわれはヒュームの考え方に反対する形で、カントが認識のコペルニクス的転回をすることで、合理論者の立場から人間の能動性、自由性を謳ったことは哲学史で知っているが、私はカントはヒュームからは逃れられなかったと思う。ところが、更に後世になって、ウィリアム・ジェイムズがこのヒュームを「主知主義者」として批判しているのはおもしろい。要するに、ジェイムズにしてみれば、このヒュームとて、まだ事象に即していないということであろうか。
16) Jean Baudrillard, L'echange symbolique et la mort, Gallimard,1976., p.93.(『象徴交換と死』(今村仁司・塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992年)、邦訳144頁
尚、価値法則について補足すれば、第一の場合は自然的価値法則に、第二の場合は商品の価値法則に、第三の場合は構造的価値法則にそれぞれ対応していると彼は言っている。(同、118頁)
17)現在「仮想的」と訳されている「ヴァーチャル」という言葉を意識して取り上げた人物はドゥンス・スコトゥスである。「ヴァーチャル」は、古典的な哲学の世界で使われる、「実在的」と「形相的」の分類からは「実在的」なものに位置する。因みに山内志朗氏はこの言葉に「潜在的」という訳を与えている。例:「存在の総ての性質は、存在または存在に下属するものに潜在的に(virtualiter)含まれる。(Opus Oxoniense, 1.1.d.3.q.3.n.8.)」
M・ハイムによれば、スコトゥスは、「仮想的」という言葉を現実とわれわれの経験との間を橋渡しする言葉として使っているのである。(マイケル・ハイム『仮想現実のメタフィジックス』、田端暁生訳、岩波書店、1995年、205頁)
18)自然や社会なら分かるが、身体まで環境というのはどうかと思うという意見もある。これについて、J.ギブソンは「環境を記述するために選ばれる単位は、記述しようとする環境の水準に依存する」とのべ、環境の原始的単位はなく、上位あるいは下位単位があるだけだと考えている。 そして下位単位は「入れ子」状態になっているという。(Gibson, James J., The Ecological Approach to Visual Perception, 1986, p.9.) 私はこの考えを受け入れている。すなわち身体的環境という一人間は自然的環境あるいは人為的環境の下位単位なのである。従って、誤解を恐れず言えば、肝臓的環境(あえて言えば)は身体的環境の下位単位なのである。
19)「平和」の定義が難しいとされるのは、それが「現象」ではなく、「状態」であるからだとは、よく言われるところである。普通考えられているものをあげれば、「秩序がとれていること」、「正義が貫かれていること」、「心が穏やかであること」がその代表的なものである。これらの判断は、元々は人間がすべきものではないのかもしれないが、「人間存在領域」では、人間に任されて勝手に解釈されるところとなり、それが平和阻害要因となっているというのが、本文の隠れた趣旨でもある。
20)この言葉はE・ミンコフスキー『精神分裂病』(村上仁訳、みすず書房)に出てくる彼の造語である。彼は精神分裂病(現在では統合失調症といわれる)患者はそれができなくなった人間として説明している。もちろん私はこの言葉を借りることによって、われわれが観念構成できなければ、現実との生ける接触ができなくなるということを言っているわけではない。
21)拙著『ホモ・サピエンスと平和』の中でその具体例を示そうとして次のように述べ
た。「モーゼの場合は、知恵持つ人間であっても侵してはならない十戒の中に、キリストの場合は欲持つ人間であっても神の言葉に逆らってはならないという聖書の中に、マルクスの場合は、欲持ちそれを充足する社会的人間であっても他人のものは盗ってはならないという共産党宣言の中に、その考え方が込められていた…」しかしながら、その理念はともかく、それを実践した「人間」がある意味で攻撃的で戦闘的であったというのは何とも皮肉な話である。
22)鈴木大拙講演『禅と科学』、新潮カセット、1988年を参照。
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